「望っ」
部屋に入ってくるなり、誰かがいきなり大きな声で叫んだ。知らない男の人だった。
驚きのあまり身動き出来ずにいたけれど、私は聞くべきことを思い出して口を開く。
「……ど、何方ですか?」
すると彼は絶句したように一歩後ずさった。どうしてだろう、ひどく驚いている。
「ま、まさか、そんな……冗談、だよな?」
会話が成り立ってないんだけど……私、変なこと言ってないよね。そういえば、どうしてこの人は私の名前を知ってるんだろう。何処かで会ったことがあるのかな? 記憶にないけど。
「そんなはずはないっ。思い出せ、望っ。そんなに簡単に忘れちまうのかよっ」
彼は不意に近付いてくると取り乱したまま、私の肩に手を置いてそう言った。
「や、やめてください。人を……」
呼びます、と続けようとしたけれど、その前に彼がハッと息を呑んで手を離した。
「ご、ごめん……怪しい者じゃ、ないんだ。ただ、ちょっと気が動転してて……」
その言葉はたぶん本当なんだと思う。何だか顔色が良くないし、すごく汗を掻いている。
「本当に、覚えてないのか。俺のこと」
彼は真剣な目で静かに聞いてきた。私はなぜかばつが悪くて、目を伏せてしまう。
「はい。あの、ごめんなさい……」
「いや……望が謝ることじゃない。全部、俺が悪いんだ。すまなかった」
私の返答に落胆したのかな……今度は彼が目を伏せた。どうしてこの人が謝るんだろう。
そうだ、それよりも聞いておくことがあったんだ。
「あの、えっと。お名前、何て言うんですか」
「あぁ……夢原。夢原深也。深いなりって書いて、深也」
困ったように眉を下げつつも、彼は名前を口にした。夢原深也。やっぱり聞き覚えがない。
「どうして私の名前を知ってるんですか?」
警戒心よりも、私のことを知っているらしい、この人に対する関心の方が強くなっていた。
「それは……ところで今、君のお母さんは何処に?」
彼は一瞬顔を顰めた後、私の質問に答えることなく、逆に聞き返してきた。
「お母さんは売店に行きましたけど……何か?」
「いや、今日はこれで帰るよ。頭を冷やしてきた方が良さそうだ……お母さんによろしく」
彼――夢原さんはそう言って背中を向けると、覚束ない足取りで部屋を出て行った。
お母さんが売店から戻ってきたのは、それから十分くらい経ってからだった。買ってきてもらったイチゴミルクキャンディーを受け取り、私はお母さんに今し方起きた出来事を話す。
「そう……」
私の話を聞いても、お母さんは素っ気無い相槌しか返してくれなかった。お母さんは最近元気がない。心なしかちょっと痩せたような気がする。やっぱり私の病気のせいなのかな?
ごめんね、お母さん。でもそれ以上に私はさっきの彼のことが気になっていた。
「ねえ、お母さん。彼、俺のことを覚えてないのかって言ってた。私は彼を知らない。けど、モヤモヤして落ち着かない気分になった。どうしてかな? お母さん、何か知ってるの?」
お母さんは窓際に置いてある花瓶の水を取り替え終えるまで口を開かなかった。私はその間、ひたすら反応を待った。お母さんは花瓶を元の位置に戻し、振り返りながら言った。
「望、私の口からは言えないわ。あなた自身で答えを見つけなきゃ意味がないの」
お母さんは口元を上げて微笑んだみたいだったけど、その目は悲しそうだった。
大事なことをどんどん忘れていってる自覚はある。けれどそれが何なのか、今の私には分からない。ただ、怖かった。このままお母さんのことも忘れてしまうの? そんなの嫌だ。
私は右手で左手のシルバーのリングに触れた。そうすると、なぜか心が安らぐから――