望から手紙が届いて一週間が過ぎた。それは望の苦悩が俺の苦悩となって七日目ということを意味する。世間的な話題を挙げるなら、昨日はこの夏一番の猛暑を記録したそうだ。
が、そんなことはどうでもいいことだった。望の記憶を何としてでも取り戻す、それが今の俺には最も重要なミッションである。某首相の言葉を借りれば不退転の決意というやつだ。
一週間前、俺は望から手紙を受け取り、即座に病院に駆けつけた。そこには確かに望がいた。だがそれは俺のよく知る望ではなく、明らかに初対面としての春崎望でしかなかった。
あの時の望の様子はとても冗談で受け流せるようなものではなかった。あまりの出来事に狼狽え、それでもなお信じられずに望の肩に手を置いた時、望の肩は震えていた。まるで見ず知らずの男に突然肩を掴まれたかのような反応……望が俺のことを拒否する姿が脳裏に焼きついた。
望にとっての夢原深也は、記憶の彼方から二度と戻っては来ないのか。もう望と幸せな日々を過ごすことは叶わないのか。二年半前の事故以来、忘れかけていた絶望が甦ってきた。
考えてみれば、事故の後遺症――高次脳機能障害――らしき兆候は前々から出ていた。
一年半前の卒業式前日、俺はちーちゃんの話をした。幼い頃に望が可愛がっていた子猫だ。俺が覚えてるのに望はなかなか思い出せなかった。記憶を辿ると、あれが最初の兆候だ。
そして手紙にもあるように、望が度々訴えていた頭痛もそうだろうし、最近の体調不良はおそらく病気が顕在化していることを隠したかったんだろう。極めつけは望が初音さんに返信しなかったという司馬の話。俺と喧嘩中で余裕がなかったから、ということで司馬は納得していた。
しかし本当はそんな理由ではなかった。望はその時もう既に、初音未来という友人の記憶そのものを失っていた。だから返信したくてもできなかったんだ。それなら無理もない。
――どうにもならないことだから。最後は現実を受け入れるしかない。
望の言葉を思い出す。本当にそうなのか。望、お前はこんな現実を受け入れたのか?
いや、きっと望は最後の最後まで抗おうとしたはずだ。手紙に目を落とす。望の字は後半になればなるほど滲んでいた。それが望の無念を何よりも表している。俺は絶対に諦めない。
俺は頭の中を整理し終えると、車のカギを持って家を出た。望が待つ病院へ行こう。
望の病室を訪れるのはこれで二回目だった。前回は言うまでもないが一週間前。冷静さを取り戻し、頭を整理させ、再び此処を訪れる勇気を出すのにこれだけかかってしまった。
しかし一度冷静さを取り戻すと、俺はそこまで絶望しているわけではないことに気が付いた。何しろ望は生きている。二年半前の事故のように、昏々と眠り続けているわけではないのだ。一時的に記憶は失っているとしても、それが戻る可能性はゼロじゃない。諦めるには早すぎる。
俺は唾を飲み込み、部屋の扉をノックした。はい、という小さな返事が返ってくる。記憶にある通りの望の声だ。よしっ。俺は自分を奮い立たせるように、ドアに手をかけた。
部屋に入ると、ベッドの上に座っていた望と目が合った。一人だった。
「やあ。その、また来てもよかったかな」
無意識に声が震えてしまった。いかんせん此処で拒否られたら取り付く島もない。
俺が注視する中、望は静かにコクリと頷いた。まずは第一関門突破。胸を撫で下ろす。
「そうだ。これ、よかったら食べて。イチゴタルト。イチゴ好きだったよな?」
ベッドの横にあるパイプ椅子に腰を下ろしながら、俺は右手の包みを差し出した。此処に来る途中、手土産に駅前の店で買ってきたものだ。望は昔からイチゴが好きだった。
「……どうして私の好きなものを知ってるんですか?」
おずおずと包みを受け取った望は、訝しむように小首を傾げる。
「えっと、君のお母さんに聞いたんだ」
俺は一瞬迷ってからそう答えた。やっぱり警戒されてるんだろうか。無理もない。今の望にとって、俺は見ず知らずの他人だ。会うのはこれで二回目――そう、まだ二回目だ。
改めて病室の中を見る。八畳ほどの個室だ。大部屋でなくて本当によかった。前回無我夢中で飛び込んだ先が大部屋だったら、ちょっとした騒ぎになっていたかもしれない。
ベッドの横、俺の座っている位置の反対側には小振りの冷蔵庫と小振りの収納棚が、窓際には花瓶が置かれていて幾輪かの花が挿してあり、八月の太陽を受けて輝いている。
望の記憶を取り戻す前に、まずは信頼関係を取り戻さなければならない――