俺は数分前まで焼き蕎麦の入っていたプラスチック製容器を持ち、スラックスの土を払ってから立ち上がった。望も焼き蕎麦が食べたいと言うので、さっきの模擬店に戻り、焼き蕎麦を買って望に渡した。
「ありがとう。それとジャガバターも買ってくれないかな?」
「食べられるのか? 分かった、その辺に座っててくれ」
望が申し訳なさそうに上目遣いで所望してきたため、断る術のない俺は近くの石段を指差し、再び混雑する模擬店に突入した。まったく望の奴、例の観覧車の一件から急に女の特技を生かし始めやがって…。
俺が10分ほどして戻ってくると、望は石段の上に腰かけて焼き蕎麦を啜っているところだった。
「わざわざありがとう、深也。お礼にジャガバター、あーんして食べさせてあげようか?」
悪戯っぽく微笑む望に、胸がドキッとした。俺は腰を下ろすまでの短時間に頭を働かせる。
「うんと言いたいところだけど、流石に此処じゃ遠慮しとく」
結局そう言わざるを得なかった。生徒や教師の他、家族や他の学校の生徒もいる状況だしな。
「そっか。ちょっと残念」
望はそう言って一頻り微笑み、再び手を動かす。俺は望の言葉の意味を考えかけて首を振った。考えても分からないことは考えないことだ。俺は焼き蕎麦の空き容器を捨てる場所を求めて視線を動かした。
未だにさっき食べた焼き蕎麦の空き容器を片手に持っている。もう片方の手にはジャガバター。仕方がない、校舎内にあるゴミ箱に放り込むか、と思い始めた時、俺の目の前のアスファルトに影が落ちた。
「やぁ、今朝ぶり。2人とも探したよ」
司馬がいつもの0円スマイルを浮かべて立っていた。右手にはパンフレットが握られている。
「探したって? 初音さんと一緒じゃなかったのか」
「うん、さっきまで一緒だった。でも彼女は用事があって体育館に行ったんだ」
俺が率直に本題に入ると、司馬はあっけらかんとそのように言ってきた。少しくらいは怯むかと思ったのに、期待外れだったぜ。ん? ところで、どうして初音さんが体育館に行くのだろうか。
「というのも、彼女がクラスの友達3人と歌を歌うことになっているからなんだ」
司馬の話によると、体育館で行われているライブ演奏に、初音さんも参加するということだった。体育館でのライブは吹奏楽部や軽音楽部、コーラス部の他に生徒の一般参加も認められている。その場合は予め学校側に申請しておく必要があるのだが、まさか初音さんが参加していたとはちょっと驚きだ。
「そんなわけで、ぜひ2人に彼女の声を聴いてもらいたくてさ。この後、大丈夫かな」
俺に予定なんぞあるはずもなく、俺は焼き蕎麦を食べ終え、ジャガバターを食べている望を見た。
「私も聴いてみたいな、初音さんの声」
確かに司馬を魅了したという初音さんの歌声には少なからず興味がある。俺は司馬に頷きかけた。
「OK、じゃあ体育館で。彼女の出番は2時頃だそうだ」
「分かった」
返事をすると司馬は手を振って、模擬店の人混みの中に消えた。司馬も何か食べるのだろう。
俺は望がジャガバターを食べ終えるのを待って、1度校舎へ戻り、空き容器をゴミ箱に捨てた。
体育館に行って腕時計に目を落とすと、時刻は2時10分前だった。ちょうど良い時間だろう。ステージでは見たことのない男子生徒達が、アップテンポな演奏を行っていた。恐らく3年生か。
館内には所狭しとパイプ椅子が並べてある。俺と望は前の方に手頃な空席を見つけて腰を下ろした。照明がステージに集中しているためか、館内はいつもに比べて薄暗い。司馬を探すのは無理か、などと考えていると、疎らな拍手と共に男子生徒達が舞台袖に消え、代わりに次の人達が現れた。
確かに初音さんと3人の女子生徒だ。進行役の生徒の紹介を受け、短く挨拶の言葉を述べている。3人の生徒はいずれも、キーボード、ギター、ドラムを弾くらしく、ボーカルは初音さん1人のようだ。
そして初音さんが大きく息を吸い込み、歌を歌い始めた。その一瞬、館内がしんと静まり返った。
「科学の限界を超えて 私は来たんだよ〜っ。ネギはついてないけど 出来れば欲しいなぁ〜っ」
そのように晴れやかな笑顔で歌う初音さんの声は、想像していた以上に素晴らしいものだった。歌声に引き込まれるとは、まさにこんな感覚なのだろう。観客が一瞬にして静まり返ったのも納得できる。
隣に座っている望を見ると、まるで呼吸を忘れたかのように初音さんの歌声に聴き入っていた。無理もない、これなら司馬が惚れたというのも十分理解できた。初音さんはとても輝いて見えた。ステージで歌っている初音さんの表情は、歌うことが嬉しくて仕方がないという笑顔だったからな。
その後、続けて3曲のオリジナル曲を歌い切った初音さんは、息を弾ませてお礼の言葉を述べた。盛大な拍手が起こったのは言うまでもない。それに釣られて、俺も無意識に手を叩いていた――