事故から1週間が経っていた。望はまだ眠ったままで、まだ澄んだ瞳を開けてはくれなかった。
事故の翌日から特別に俺と望の両親には面会許可が下りた。望は眠ったままだが、眠っていても話しかけることで目覚めさせられる可能性があるからだと言う。医学的知識のない俺には詳しいことは何一つ分からなかったが、こうして昼過ぎから日が暮れるまで望の傍にいた。俺に出来る唯一のことだった。
今日も部屋の隅に折り畳まれていたパイプ椅子を、望の寝ているベッドのすぐ横に置いて腰掛けた。望の白い手を握り、その安らかな寝顔を眺める。一刻も早く目覚めてくれることを天に祈りながら。
あの事故の日、倒れた望を見た時に俺は全てを思い出した。それは俺がなくしていた記憶だ。
8年前、当時9歳だった俺は此処ではなく、雪の多いある地方都市で暮らしていた。望も一緒だ。昔からの幼馴染で仲の良かった俺達だったが、俺の引越しを境に望との連絡は途絶えてしまっていた。そして1年前、望の転校によって再会を果たした。それらは忘れることなく、しっかりと頭に刻み込まれている。
しかしそれ以前の記憶は、何処かおぼろげでいつも不鮮明だった。謎だったのは妙な既視感だ。最近になって何度か訪れていたあの感覚の正体は、この忘れていた記憶の前兆だったのではないか。
忘れていた記憶――それは辛い過去でしかなかった。それは今までずっと望を苦しめていたんだ。何故なら10年前、7歳だった俺達は既に1週間前のような交通事故を経験していたからだった。
家の近くの公園で遊んでいると、道路に猫が飛び出したのを見かけた。俺と望は猫を追いかけた。道路の真ん中で望が猫を捕まえて抱きかかえた。その時だった。曲がり角から突然乗用車が現れた。あの時も俺は咄嗟に望を庇った。運転手も驚いただろう。ブレーキを踏んだようだが後の祭りだった。
望は掠り傷程度で済んだはずだった。しかし心には深い傷を負った。それは現在も続いているに違いない。俺は車にぶつかり、地面に投げ出された。目の前に火花が散ったような感覚を覚え、気を失った。
気が付いた時、俺は病院のベッドに横たわっていた。俺の母親は涙を流して喜んでいた。だが俺は交通事故に関する記憶がなかった。それどころか、それ以前の記憶もあやふやだった。恐らく後頭部を打った衝撃によるものだったんだろう。俺は幼い頃の記憶の一部を失った。他に後遺症はない。
記憶も大部分は残っていたし、俺の両親は不幸中の幸いだと考えたんだろう。だからあの事故のことも黙っていた。時が過ぎれば誰もが嫌なことは忘れていく。でも望だけはその忌まわしい記憶が風化することはなかった。事故の後もそして再会した時も、望は知らない振りをしていたが、実際には覚えていたはずだ。
GWに一緒に買い物に行った時、俺は望の髪型について話した。6歳の時の髪型だった。すると望は驚いたように目を見開き、不自然な笑みを見せた。明らかに動揺していた。俺はずっとそれが引っかかっていた。きっと望は俺が不意に、昔の記憶の一部を取り戻したことに驚きを隠せなかったのではないか。
事故の前に喫茶店で、望が言っていた言葉が甦った。奇跡って、信じる?――望は俺にそう問いかけた。あの時望は俺に何を伝えたかったのだろうか。だが今はもう望に真意を訊ねる術は残されていない。
起こる可能性があるから、奇跡なんだよ――そうだな、望。可能性を信じたって良いじゃないか。
望。俺には奇跡は起こせないけど、お前の傍にいることは出来る。俺はずっと此処にいるからな。お前が悲しい時は慰めてやるし、楽しい時は一緒に笑ってやる。辛い時は俺のことを頼ってくれて良い。
約束する。俺はもう何処へも行かない。だって俺は――本当に、望のことが好きみたいだから。俺だけじゃない。お前のご両親は勿論、司馬や初音さんも、五月や五十嵐だって、皆望のことを待ってる。
7年間も離れ離れだったんだ。これからその空白を埋めるくらいの日々を過ごすんじゃなかったのか。望も約束してくれよ。絶対に目を覚ましてくれるってさ。これでお別れなんて、そんなの寂しすぎるぜ――