「はい、やめ。後ろから解答用紙を集めて」
俺は短い溜息をつきながら、前の生徒に解答用紙を手渡した。喉元まで出掛かっていたのだが、どうしてもあのページに書かれていたあれ――そうだ、官省符荘だ――が出てこなかった。
短き安息期間であったゴールデンウィークも光陰のように過ぎ去り、5月も半ばを過ぎていた。我々学生の憂鬱の根源とも言うべき中間テストが、この学校でも始まりの合図を告げている。
今日は悪夢の3日間の初日、2時限目が終わったところだ。英語に始まり、日本史が済んだ。次は古典だったが、俺は割と得意科目であったため、心に若干のゆとりを持つことができた。
「深也、できた?」
顔を上げると、ノート片手に望が近付いてくるところだった。
「うーん…まぁ、それなりかな」
「そっか。私は英語に力を入れてたから、日本史は出来なかったなぁ…」
そういえば、小学校時代の望は算数が得意だったような気がする。それ以降のことは転校したからわからない。今回のテストで望の最新の実力が明らかになるわけか。
「テストはまだ2日もあるんだし、1科目くらい落としても問題ないさ」
俺はそのようにフォローを入れつつ、今更ながら成績で望に負けていたら格好がつかないな、などと考えていたところ、背後から聞き覚えのある声が降ってきた。
「おいおい、何でも良いに越したことはないぜ?」
司馬に関してはフォローの必要はない。学校の授業から明日使える無駄知識に至るまで、ジャンルを問わず何でも知っている。司馬曰く「歩く生き字引」らしい。そんな言葉、今じゃ絶対に死語だ。
唯一長所を挙げるなら言動が鼻につかないところか。これで鼻についたら嫌味以外の何者でもない。
「今回の英語は割と簡単だったな。なぁ、春崎さん」
…こいつ、俺が英語が苦手なのを知ってて言ってやがる。前言を撤回すべきかどうか、本気で思考を巡らそうかどうか考えていると、司馬はふっと苦笑した。
「冗談だよ。俺だって空欄はあるし、最後の問題は厄介だった」
「とか言って、お前が8割以下の点を取った記憶はないが?」
「へぇ、司馬君って凄く頭がいいんだね」
俺が嫌味を言ってやったのに対し、望は胸の前で両手を合わせて、感心したような声を出した。
「いや、自慢できるほどでもないよ。代わりに俺はスポーツは得意じゃないから。それを言うなら成績も好位置、更に運動神経抜群の彼の方が一枚上手だな」
何気なく司馬の視線を辿ってみると、教室の中央付近の席で熱心にノートを眺めている東條直樹の姿があった。健康そうな小麦色の肌をしており、背が高い。話したことはないが、初回の体育の授業で大いに目立っていた記憶は残っていた。
「彼はサッカー部らしいが、他の運動部も引き抜きたくて仕方がないらしい」
なるほど、生まれ持った素質の持ち主って奴か。俺は司馬の情報力に感心しつつも、心穏やかではなかった。そんな絵に描いたように長所だらけな男は好きになれない。
「あ、そろそろ先生が来そうだから、席に戻るね」
俺と同じく無言で東條を眺めていた望は、黒板の横の時計、俺と司馬の順に視線を移して言った。
「じゃ、俺も戻るとするかな」
二人が席に戻っていくのを見送り、一応最後の悪足掻きでもしておくか、と俺は鞄に手を伸ばした。古典のノートを探していると、誰かが目の前に立つ気配を感じた。
「ねぇ、あんたと望ってさ、付き合ってないわけ?」
俺が顔を上げると意外にも五月が立っていて、更に妙なことを言い出した。五月の不意をつく言葉に、俺は動揺を隠せなかった。いや、そもそも何故急にそんなことを。
「あれだけ仲良さそうなのに、付き合ってないの?」
「…俺と望は幼馴染だ。望は良い奴だけど、それと恋愛感情は別じゃないか?」
一時停止した思考をどうにか再生させ、どうにか事実を述べた。
「客観的にはそういう感じに見えないって言うかさ」
「それに、多分望だって俺と同じ気持ちだと思うよ」
五月は俺の反応が気に入らないのか、納得がいかないのか、厳しい目付きのままだ。まだ何か言い足りないのか、口を開きかけたが、結局何も言わずに席に戻った。
不思議に思っていると、五月が席につくと同時に教室のドアが開き、頼んでもいないのに古典の問題用紙を持った先生が現れた。どうやら時間切れで、俺に何か言うのを諦めたらしい。
って、しまった! 結局古典のノートを見る暇がなかった! …とは言っても時既に遅し。早くも先生が問題用紙を配り始めており、一瞬前の教室の喧騒は嘘のように静まり返っていた――