俺たちは卒業を明日に控えていた。
やっとと言うべきなのか、もうと言うべきなのか判断に迷うところだが、俺としてはやっぱりもうという気分だった。過ぎ去った日々を早く感じるのは、冬の次に春が来るくらい至極当たり前なことだ。
今俺が何処で何をしているのかと言えば、高校生活最後の大掃除を終え、見慣れた3組の教室でラストイブとなるショートホームルームが始まるのを待っている。教室の窓から見下ろせる桜の木は、まだ桃色の花びらをつけてはいないが、もうじき春の息吹を感じさせてくれそうな蕾を蓄えていた。
しかしこの桜が咲き誇る景色を、もうこの教室から見ることは出来ないんだな――なんて、ちょっと感傷的になっていたからか、俺はすぐ後ろに人が立っていたことに気が付かなかった。
「だーれだっ」
「うわっ」
ご丁寧に後ろから小さな手で俺の目を隠してきた。俺にこんなことをしてくるような変わり者はこのクラスに一人しかいない。
「……あのー、望さん?」
「んー?」
「手、離そうね」
「やだよっ」
語尾に音符がつきそうなくらい声を弾ませている。
「困ってるみたいだから勘弁してやるかっ」
俺が望の機嫌の所以について考えを巡らせていると、望は勝手に解釈して手を離した。
「何だよ、何か良いことでもあったのか?」
「ふふ、当ててみて」
はて、さっぱり思い当たらないんだが。
「分からん」
「もう、ちょっとは考える素振りくらいみせてよっ」
頬を膨らませて横を向いてしまった。むむ、何だ? 嬉しそうにしていると思ったら、今度は拗ねてしまった。望にしては珍しく情緒不安定だ。正直なところ、俺はちょっと戸惑っていた。
「本当に覚えてないの?」
望が急かして来たので、ふと思いついたことを言ってみた。
「あ、望が子猫のちーちゃんを拾ってきて、お母さんに怒られた日じゃないか? 確か小学生くらいのこの時期にそんなことが――」
俺はそう言いながら、望の表情が曇っていくのを感じて言葉を切った。
「ちーちゃん……? そんなことあったかな……」
案の定、望は目を瞬かせ、俯いてしまった。
「忘れちゃったのか。あんなに毎日公園でエサをやって可愛がってたのに。絶対飼うんだって聞かなくて、お母さんと大喧嘩までしたじゃないか」
そこまで言ってようやく記憶が甦ったらしい。突然顔を上げ、右手の拳で左手を叩きながら言った。
「あ、そういえばっ。ちーちゃん、思い出したよ。すっかり忘れてたなぁ……」
ちーちゃんのことを忘れていたのが腑に落ちないのか、望はしばらく神妙な顔をしていた。だが本来の目的を思い出したらしく、不意に声を張り上げた。
「じゃなくて、今日は正式に付き合い始めて一年記念日っ」
その瞬間、喧しいくらいだった教室がしんと静まり返った。見ると、クラスメートたちが何事かとこちらの様子を伺っており、ヒソヒソと何か喋ってる奴らもいる。おい、望。目立ちすぎだ。
望に視線を戻すと、耳まで真っ赤にして再び俯いていた。本当に今日はどうしたんだ?
しかし、なるほど。俺たちが付き合い始めたのは去年のバレンタインだが、何のわだかまりもなく正式に……と言われると、それは三月一日、去年の今日のことだった。
俺は元クラスメート、東條直樹の顔を思い浮かべた。あの日の放課後、俺は確かに望の小さな白い手を握り返し、こう言ったんだ。今日から俺たちは正式に恋人だから、と――