新年度が始まってから約二ヶ月が過ぎた、六月の半ば。そろそろ梅雨入りが近いのか、このところ毎日どんよりとした雲の多い日が続いている。そして俺の心も厚い雲に覆われていた。
理由は簡単だ。望の口数が目に見えて減っているからだった。特に語学で同じ授業を履修してる連中とは一言も話さなくなったし、この前の食堂での一件以来、九条さんや桜木とも一定の距離を取るようになっていた。誰にでも明るく穏やかに振る舞っていた以前の望では考えられない。
何が望をそうさせているのか? その理由はまだ分からないままだ。望が話してくれる気配は全くない。これは持久戦になるかもしれないな、と考え込んでいると後ろから肩を叩かれた。
「随分真剣だけど、何の本を買うつもりなの?」
振り返ると、そこには超大学級の令嬢こと九条さんが料理本を片手に立っていた。
「いえ……ちょっと考え事を。九条さんこそどうしたんです? 料理の本なんて」
「あたしだって料理くらいするわよ?」
唇を尖らせて珍しく拗ねた顔の九条さん。自分で作らなくても一流のシェフがいるでしょう……とは言わなかった。此処で九条さんの料理を食べるチャンスを潰したらもったいない。
「そんなことより、これから少し時間ある? お茶でも飲んでいかない?」
元の柔和な笑顔に戻り、九条さんがそんな風に言ってきた。もちろん行くに決まってます。九条さんの誘いを断った日には、学園陰謀サスペンスに巻き込まれること請け合いである。
俺と九条さんは大学最寄駅前の本屋を出ると、向かいにある某コーヒーチェーン店に入った。窓側の二人席を確保し、俺はコーヒーを、九条さんはカプチーノをそれぞれ注文した。
「考え事って、望ちゃんのことでしょ?」
注文したドリンクが置かれ、店員さんが遠ざかるなり、九条さんは何気なく口火を切った。
「それは……まぁ、そうですね」
俺は一瞬答えることを躊躇ったが、結局肯定した。司馬と同じくらい勘の良い九条さんのことだ。誤魔化してみたところで、きっと何もかもお見通しなのだろう。所詮無駄な抵抗さ。
「だと思った。最近望ちゃん、全然元気がないし、夢原君は顔に出やすいから」
よく言われるんだが、俺ってそんなに顔に出てるのかね。自覚はないんだが。
「あたしも心配してたんだけど……夢原君は原因に心当たりはないの?」
九条さんは真剣な目で俺を凝視してきた。あったらとっくに相談してますよ。
「そうね。あなた達の場合、些細なことで喧嘩することもなさそうだし……」
原因を考え込んでいるのか、九条さんは拳を顎にあてて視線を落とした。
「これはあたしの勘だけど、望ちゃんが話したがらない悩みは、すごく大事なことだと思う。そしてあなたにも話さないということは、それは夢原君に関係してるからじゃないかしら」
俺に関する大事な事、ですか。見当も付かないんですが、何だと思いますか?
「それはあたしにも分からないけど……少なくとも、あたし達周囲の人間が相談に乗ってあげられるような簡単な問題じゃないのかもしれないわ。相談に乗れるとしたら、たった一人」
……それが俺、ということですか。
「夢原君、望ちゃんが話してくれるまで待ってよう、とか思ってる?」
図星だったので黙っていた。それが答えになっていたんだろう。九条さんは肩を竦めて続けた。
「それも一つの優しさかもしれない。夢原君は優しいしね。けど、優しいだけじゃダメな時もあるわ。相手のためを思うなら、時には感情をぶつけ合うことも必要なんじゃないの?」
どういう意味です? それは望に無理やり悩みを話させろってことですか。
「そうじゃない。でもね、待ってるだけじゃダメな時もあるってことよ。あなたには後悔して欲しくないから……ごめんなさい。二人の問題なのに、ちょっと出しゃばり過ぎたかな」
いえ、そんなことは。九条さんが心配して言ってくれてるんだってことは分かってますから。
「あたしだけじゃないけどね。祐一もあれで心配してるのよ?」
九条さんは少し照れたように口角を上げ、すっかり冷めてしまったカプチーノに口を付けた。
その時になって俺は初めて、こんなところを誰かに見られたら無用な誤解を受けるんじゃないかとか、いつも高級なドリンクばかり口にしているはずの九条さんは、こんなところのカプチーノの味では満足できないんじゃないだろうかとか、そんな余計なことばかりが頭に浮かんだ――